「週刊新潮」の成功による出版社系週刊誌ブームの中で1959年に創刊。講談社にとって、「週刊少年マガジン」に次ぐ、第2の週刊刊行物となる。ヌード、劇画などを特徴とするホワイトカラーのサラリーマン向け週刊誌というスタイルを築き、続く「週刊ポスト」「週刊宝石」にも影響を与える。表紙には、女優や女性タレントの顔写真を用いる。撮影は20年以上、秋山庄太郎が手がけた。競合誌は『週刊ポスト』で発売日が同じことから、店頭ではペアで並べて売られることが多い。
創刊は『週刊少年サンデー』と同じ1959年3月17日。創刊号の表紙を飾ったのは大相撲の大関・朝汐(ちなみに創刊当時開催されていたと思われる大相撲春場所で横綱昇進を決める)。
創刊後の数年間は、部数の低迷が続いていたが、1965年に第3代編集長に就任した内田勝の様々な手段によって、1970年には150万部を達成。少年漫画雑誌売り上げ1位の座を獲得し、『朝日ジャーナル』『平凡パンチ』と共に大学生の愛読誌と呼ばれ、黄金時代を築いた
小学館とは子供向けのキャラクタービジネスで常に競い合っており、1990年代中盤までは『ガンダム』や『セーラームーン』のヒットなどで小学館をリードしていた。しかし近年は子供向けのキャラクタービジネスが不調である。幼児向けコンテンツではNHKの『いないいないばあっ!』や『おかあさんといっしょ』、女児向けコンテンツではテレビ朝日系日曜朝8:30枠関連(=現在の『プリキュアシリーズ』)の人気があるものの、幼児向けの『ディズニー』雑誌の展開を縮小させたり、2007年には『ガンダム』人気を築いた『コミックボンボン』の休刊を決定するなど、ファミリー向けや男児向けのキャラクターコンテンツが大きく足を引っ張っており、その部門で『ドラえもん』や『名探偵コナン』など国民的人気を誇る作品を多数擁する小学館に大差を付けられている。
一方で、小学館が苦手とする、高校生から20代の若者やオタクを対象とした漫画ビジネスは比較的堅調である。男性向けは『はじめの一歩』・『魔法先生ネギま!』など、女性向けでは『のだめカンタービレ』・『ライフ』など、のヒット作品を輩出している。
2002年、2006年のサッカー・FIFAワールドカップの際にはそれぞれFIFAオフィシャルブックとして、2002年『公式ガイドブック』『公式プログラム』『公式写真集』(総集編)、2006年『公式ガイドブック』『公式総集編』を刊行している。
『ディズニー』キャラクターを使用した書籍の出版権を持っており、東京ディズニーリゾートのオフィシャルスポンサーでもある。
弁論雑誌である「雄辯」を出版していた。「面白くて為になる」をモットーに、戦前から大衆雑誌『キング』、『少年倶楽部』などの様々な雑誌や書籍を出版。『吉川英治全集』『日本語大辞典』などを出版する傍ら、多数の文学賞を主宰した。
2008年4月現在、国内出版業界で最大手であり、一時は年間売上高が2,000億円を超えていたこともあった。しかし近年はいわゆる「出版不況」により売上が減少、2002年度には戦後初の赤字決算となった。また、最盛期には業界2位の小学館(一ツ橋グループの筆頭会社)に約500億円の差を付けていたが、近年は売上高の差も接近し続け、2006年度は講談社は1456億円にまで売り上げが落ち込み、1470億円を売り上げた小学館に業界最大手の座を譲る結果となった。だが2007年度の決算では講談社は売上高1443億100万円、小学館は売上高1413億4400万円となり業界最大手の座を奪還した。

野間 清治(のま せいじ、1878年12月17日 - 1938年10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。
「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。息子である野間恒は、1934年(昭和9年)開催の天覧試合で優勝し、“昭和の大剣士”と謳われた。
ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、成功への近道とは道徳的な道に他ならないとし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。
公共心の旺盛な人物で社会貢献に積極的であった。奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、野間道場はいまだ無料で開放されており、野間記念館という美術館も低料金(一般:500円)にて入館可能で横山大観や鏑木清方の日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを目にすることができる。

創業者の野間清治により、1909年に「大日本雄辯會」(だいにっぽんゆうべんかい)として設立される。「講談社」の名称は1911年より大日本雄辯會と併せて使用。1938年に野間恒が2代目社長に就任、続いて野間佐衛が3代目社長に就任。1945年に野間省一が4代目社長に就任し1958年が「株式会社 講談社」と命名。その後、1981年に野間惟道が5代目社長に就任して、1987年に野間佐和子が6代目社長に就任し現在に至る。